秦の都・咸陽。
陰謀渦巻く戦国の世で、この国でも、肉親同士血で血を洗う骨肉の争いが続いていた。
聡明な若き大王・嬴政に、王弟・成蟜が反乱を起こし、国を二分する内乱に発展したのだ。
持ち前のカリスマ性と果断さで数の差を巻き返す政に、王弟は大軍や刺客を次々と差し向け、卑劣な罠を仕掛け続けた。
そして――。
「ははははは、いい格好だな、兄上」
「……」
大王・嬴政は、後ろ手に縛られて、玉座に座る王弟の前に引き出されていた。広い玉座の間には、政を囲むように、王弟派の群臣が居並んでいる。
それでも政の目は死んでいなかった。鋭い眼光で、射殺すように、静かに、弟を睨みつけている。恐れなど微塵も感じさせぬ、堂々とした立ち姿であった。
「ふん、まだそんな顔をしおるか。兄上の不遜さは相変わらずのようだな」
「黙れ。お前は、ずいぶんと偉くなったものだ」
「何を言う、元はといえばこの座は俺のものではないか。卑しい賤民あがりの分際で、よくもこけにしてくれたものよ」
「お前ごときに、この国は治められん。竭氏や呂不韋にいいように利用されているのがわからないか」
「ふふん」
こんな状況でも、政は顔色ひとつ変えず、弟を正面から見据え、淡々と言い放つ。だが、王弟はなおも機嫌よさそうに笑みを浮かべたままだ。
「なにか勘違いしておるようだなぁ、兄上。俺はただ、その余裕ぶった顔が恐怖に染まり、絶望の中で醜い死を遂げるところが見たいだけよ」
その冷たい声音に、大臣たちが息を飲む。だが、政は全く動じない。
「そんなくだらん理由で、国を乱したのか」
「その通りよ。その態度がいつまでもつか、見ものだな」
「ふん、俺を殺せば、国は滅ぶぞ。嫉妬にとりつかれた愚物め」
「もうその気持ちの悪い無表情にも飽きたわ。早く始めろ」
成蟜が合図すると、天井から先端に環を作った縄が垂れ下がった。それを見ても、政は恐れるどころか、口端に皮肉な笑みを浮かべている。
「驚いたな。お前のことだ。さぞや残酷で悪趣味な処刑を用意しているかと思ったが」
「甘いのう、兄上は。処刑の数では、俺も負けてはいないからな。いろいろ試した上で、これを選んだのだ。なにか言い残すことはあるか、兄上」
「お前のような小物にこの国を任せるのは、甚だ無念だ」
「兄上の連れていたあの汚い餓鬼も、すぐに後を追わせてやろう。くくく、せいぜい、いい声で鳴いてくれよ」
「俺を甘く見るな。仮にも大王だ。無様は晒さん」
兵士に引き立てられながら処刑台に立たされ、政は静かに目を閉じた。
(信よ。俺の無念、お前に託そう)
そして、政の首が縄にかけられ、王弟の命で足場が外された。
「ぐえええええええーーーーーっ」
広い静かな部屋に、カエルの潰れたような声が響き渡る。
玉座の間の中央で、天井から吊り下げられた少年がじたばたと足を動かしていた。
周囲を取り囲む群臣達は黙ってその様子を注視し、誰一人助けようとはしない。王弟は玉座から立ち上がると縄の下まで移動し、形振り構わずもがき続ける兄を見上げた。
「はははははは! 実にいい顔だぞ、兄上! ふははははははは!」
「ぐげっ、ぐごっ、おっ、グエエエエーッ」
首を締め付けるロープを両の手で掻きむしりながら、若き大王は声にならない悲鳴を上げ続ける。窒息により白目を剥き、大口をパクパクさせて必死に空気を取り込もうとするその姿は、泰然としていた数刻前の姿からは想像もつかない。
「その縄は兄上のために作らせた特注品でな。真綿とはいかないが、柔らかい材質だから、そう簡単には気道は潰れんぞ。じわじわと苦しむがいい。それにしてもひどい顔だ! 滑稽を通り越して、背筋が寒くなるわ! ふはははははは!」
王弟の機嫌のいい笑いに媚びるように、重臣からもくすくすと笑いが漏れる。
「ぐげーーっ、グエェェエ」
政は、空気を舐めあげようとするかのように、舌を必死に突き出し、ベロベロと振り回す。口元からはゴボゴボと泡を吹き始め、呼吸のために広げている鼻の穴からは鼻水までもが垂れ下がり、燭台の炎に光って糸をひいて伸びていく。
その顔はもはや、英明で冷徹な少年王のものではない。
生にしがみつき、恥も理性も投げ捨てた哀れで惨めなその姿は、家畜よりも卑しいものだった。
「まったく酷い顔だ。無様は晒さんのではなかったか? ふふふ、やはり、所詮は下賤の者よ。見よ、これが、この国の王だった者の本性だ。このようなものに任せておれば、先刻この国は滅んでおったわ」
「ごぼおぉ……おげぇぇ」
「んんー? 兄上、まさか、首を絞められてヨがっておるのか?」
王弟は頭上にぶら下がる政の股間を、面白そうに眺めている。死を間近にしての生理現象か、それとも本当に政の異常性癖によるものか、政の股間は、着衣越しにわかるほど、はっきりと盛り上がっていた。
敵のまっただ中で、首を吊られながら勃起しているのは明らかである。
「お、が、おげえええ、げが、おっぼぼぼぼぼぼ」
突如、政の身体が空中で激しく痙攣し始めた。そろそろ限界が近いのだろう。ますます泡を吹き、目も完全に焦点を失っている。しかし激しく震えながらも、股間はどんどん膨れ、着物が肉棒の形に沿って奇妙に変形する。
やがて政の身体が一際激しく震えると、股間が黒ずみ、生臭い臭いがほのかに広がっていった。
「処刑されながら、精を漏らしおった! わが兄ながら、見下げ果てた俗物よ」
広がり始めた群臣たちの失笑が、ぴたりと止まる。静かな部屋に、異音が響き始めたのだ。
ジョボジョボジョボ……。ポタタタタタ……。
音の出処は、吊られた政の股間の膨らみだった。
既に足をばたつかせる気力も失った政は、必死に首を抑えて惨めな悲鳴を上げている。その衣服の股間部が大きく黒ずみ、黄色い液体が滝のように床に流れ落ちている。水音は次第に大きくなり、水たまりとともに臭気が広がっていく。
周囲からざわめきが起こったが、そこに更なる異音がまじる。
バフッ、ボフッ、という、何かが弾けるような音。それに合わせて卵の腐ったような臭いが漂ったかと思うと、ブリブリという汚い音とともに、思わず鼻を覆いたくなるような強烈な異臭が充満していく。
下から見ると、政の尻が大きく盛り上がって茶に染まり、そこから臭いとともに、濾過された茶色い汁まで垂れてきている。
「あははははは! こやつ、糞尿まで垂らしおったわ!」
成蟜の一言に、室内がどっと沸いた。
「ぐえええ……ごげっ、ゲエェーッ」
当の政は羞恥を感じるどころではない。鼻水や涎とともに尿まで垂れ流しながら、薄れゆく意識のすべてを、空気を吸うことだけに傾けている。
「愚かな姿よ。おい、兄上、そんなに死にたくないか」
間髪おかず、政が首を必死に動かした。何度も何度も、小刻みに縦に振っている。
「なんて様だ。いくらなんでも失望したぞ。まぁよい、その惨めな姿に免じて、命だけは助けてやろう。暇つぶしにはなったわ。おい、仕上げだ」
王弟が合図すると、多数の妖術師達が玉座の間になだれ込み、そろって呪を唱えはじめた。
カクカクと動く政の肌が土色に変わり、その動きを止めていく。身体が硬質化し、土へと変わっているのだ。異変に気づいたのか、政が再び激しく上半身を上下左右に振り乱すが、既に変色した下半身はぴくりとも動かない。
重みが増してさらに首へ圧力がかかり、政の顔が限界まで苦痛に歪む。普通の縄ならば、首の骨がへし折れていただろう。やがて上半身や腕も変色し、ついには苦悶に満ちた顔までも、土くれへと変じていく。
「げえっ、ぎえっ、ぐえええーーっ!」
そして。
惨めな断末魔を最後に、政は物言わぬ俑へと成り果てた。
白目を剥き、大口を開けて舌を突き出し、泡を吹いて鼻水を垂れ流す惨めな顔。手は首の縄に添えられたままだ。おまけに、土人形へ変ずる直前に再び勃起したのか、股間は大きく膨らみ、尻も無様に盛り上がっている。
俑になってもなお尿を垂れ流しているが、しかし生の息吹は全く感じられない。生にしがみつく姿をとどめながら、完全に命をなくした物体へと成り果てているのだ。だが……。
(ぐ……ぐるじい……こ、……ころし、て……く……ぇえ゛……)
意識だけは、残されていた。政は死ぬことも許されず、未来永劫苦しみ続けるのだ。
永遠の苦しみを兄に与えてやろうという、王弟の悪意に満ちた心配りだった。
「約束通り、命だけは助けてやったぞ兄上。その姿、愚民どもにも見せてやらねばならぬな」
その時、重みに耐えかねて縄がちぎれ、政の身体は、ごとりと尿の上に落下した。付近には、生身の頃に裾から漏れでた糞が散らばっている。
「おい、この汚い人形を、しばらく市中に晒しておけ。だがくれぐれも、壊すなよ」
尿溜まりに横たわる土人形を残して、王弟は、いや、この瞬間、王となった少年は、愉快そうに笑いながら部屋を後にした。
そして数年後、政の予言に反して成蟜は見事に秦国を勝利へと導き、ついに中原の覇者となることに成功した。俑と化した醜い政の姿に、政派だった者たちも愛想をつかし、皮肉にも秦はひとつにまとまったのである。
そして政は、兵馬俑として成蟜の墓に埋葬された。自らの死後も永遠に兄に苦しみを与え続けて側に置いておこうという、弟の歪んだ欲望の表れであった。
(ぐげええ……、死にたい゛ぃ……もういやだぁ……誰か……信……俺を、俺を殺してぐれえぇ……ぇ)
千年は前に世を去ったであろう友の名を声にならない声で叫びながら、弟の陵墓の片隅で、政はいつまでも苦しみ続けていた。