険峻な石林や山々に覆われた自然豊かな国、璃月。経済と政治の中心である璃月港の外れ、海の見える岩壁の上に、鍾離は呼び出されていた。
「やあ、よく来てくれたね、鍾離先生。正直、来てくれないかと思ったよ」
いつものように笑顔を浮かべて、男が笑う。
「前置きはいい。要件を言え、公子殿」
「公子」タルタリヤ。氷の女皇が統べる国、スネージナヤの侵攻部隊「ファデュイ」の執行官で、しばらく前にこの国で大きな騒動を引き起こした元凶である。その件で鍾離とも浅からぬ因縁があるが、まるで邪気を感じさせない飄々とした態度で、まるで世間話をするかのように物騒なことを切り出した。
「鍾離先生。俺と正々堂々、正面から戦ってくれないかな。凡人になったあんたになら、勝てそうな気もするんだよね」
「何かと思ったらそんなことか。断る。俺にとって何の価値もないことだ」
この男が筋金入りの戦闘狂だということは知っている。付き合いきれないと一蹴しようとしたのだが。
「まあ、そう言うだろうと思ったよ。でも、断っちゃってもいいのかな。これ、なんだと思う?」
タルタリヤは懐から紙切れを取り出して、ひらひらと振ってみせた。
「禁忌滅却の札……か。」
「ご名答ー。俺が何を言いたいか、わかるよね?」
それを使えば、この地に眠る魔神の封印を解くことができる。要求を飲まねばこの国にとんでもない災いが振りかかるぞと、公子は脅しているのだ。
「やめておけ。この地に眠る魔神は、オセルなどとは比較にならないほど邪悪な力を持っている。とてもお前の手に負えるものではない」
オセルというのは、先日タルタリヤが解放した魔神だが、すぐに人間たちに撃退された。だが、この地に眠る魔神は人間が太刀打ちできるモノではない。
それを知っているのは、鍾離が何千年も前にその魔神を封印した「岩神」モラクスその者だからだ。もっとも今は神の座を降りて璃月の未来を人間達に託し、自らは往生堂という葬儀屋の客卿として生活している。
鍾離の警告を聞いても、タルタリヤは薄ら笑いを浮かべたままだった。
「知っているよ。「淑女」から聞いていた。オセルはともかく、この地の魔神にだけは絶対に手を出してはいけない、ってね」
「ならば早々に立ち去るといい。この魔神を前にした時、人は脆弱な本性を曝け出し、なすすべもなく哀れな末路を迎えることになる。醜い姿を晒したくなければ、馬鹿な考えは棄てて……」
「そこまで言われると、逆に封印を解いてみたくなっちゃうなぁ。心配しなくても、俺はこれでもファデュイの執行官だからね。そう簡単にはやられないよ。でも、璃月の人々はどうなるだろうねぇ?ふふふ、大切な民を守れなくて慌てふためくあんたの姿を拝めるなら、それも悪くないな」
「それこそ無用な心配だ。この身に替えても、民の安寧は俺が保証しよう」
「ふぅん。じゃあ、これが最後の確認だ。俺と戦ってくれるのかい、鍾離先生……いや、岩王帝君?」
この地の魔神はあまりに危険だ。公子のつまらない我が儘に付き合って回避できるならそれに越したことはない。わかってはいるのに、鍾離の頭の奥には、なぜか封印を解かせてみたいという好奇心が芽生えていた。ぞくぞくと体中が疼くような、もどかしい感覚。これは、数千年ぶりに強大な魔神と相まみえてみたいという、武者震いなのだろうか。
気が付くと鍾離は涼しい顔をして答えていた。
「断る。お前の好きにするといい」
「わかったよ。せいぜい後悔するといいさ。鍾離先生には借りがあるからね、この国を滅ぼして、たっぷり困らせてあげるよ。ふふ、ははっ、はははははは!」

タルタリヤは哄笑すると、右手に持った札を高く掲げ、爽やかな声で命じた。
「目覚めよ、淫欲の魔神!この地にいる人間も、仙人も、神も、全て骨抜きにしてしまえ!ははは、はははははははっ!!」
瞬く間に四方から黒雲が立ち込めた。強風が吹き荒れ、高波が岩壁に弾ける。鍾離が息を呑む音が、轟く雷鳴に紛れて消えた。